平安中期に、藤原氏が摂政・関白などに任命され、その下で行われた政治形態を「摂関政治」という。摂関政治を巡る近年の研究成果を踏まえて、以下のような指摘がなされている。「摂政が天皇の大権の一部を代行し、関白・内覧(ないらん=関白に準じる職掌・地位)が天皇の政務を補佐したが、天皇に代わりうる存在ではなく、あくまでも天皇制を補完する存在であった。…先例重視の時代であったので、摂政が判断裁量できる範囲は限られていたし、…公卿(くぎょう)会議を通す必要があったので多数の非難を受けるような決定はしがたく、摂政といえども自由勝手に権力を行使できたわけではなかった。また、摂政はあくまでも天皇の大権の一部のみを代行したのであって、神事祭祀・軍事外交など天皇本人しか行使できないものも少なくなかった。成人した天皇を補佐した関白・内覧にあっては、天皇の意向を無視することはできず、協調的な政務運営が心懸けられたのである。…摂関政治とは天皇制を支える政治システムであり…(皇統の分裂を避けるべく、人数が限られた皇位継承候補者の中で、幼帝や資質上、疑念のある天皇など)誰が天皇であっても政務に支障が生じないよう、天皇の政務を補佐・代行するシステムとして摂政・関白・内覧という職掌が創出されたと考えられる。摂関政治という政治システムにより、天皇制は安定的に機能することが可能になったのである。…この後、家族制度や社会構造の変化に応じて、院政、幕府政治、内閣制度など政治形態は変化してゆくが、天皇制を補完する政治制度であったことには変わりなく、ミウチないし臣下(しんか)が政務を代行・補佐するという天皇制を補完するシステムの祖型は摂関政治にあったのである」
(榎本淳一氏「摂関政治の実像」平成30年)