さらに本質に迫る!
プレイバック『戦争論』インタビュー!
それであの中に描いた公的な言葉、
私的な言葉というのは、今は個人主義の
時代になりましたから、プライベートな言葉
つまり、本音が大事であり、本音を言え、
本音は素晴らしい、本音主義は格好良い
みたいな形で、八十年代ぐらいから特に大きく
若者の中に浸透していってしまうんですね。
大人は本音ではなく、建前を言うから嫌だとね。
ある意味わしも、小林よしのりは本音を
ずばずば言うから良いというような言い方で
誤解されているような部分もありますけど、
本音を言いさえすれば良いのであれば、
最終的に行き着く所は、美味い物を食って、
女抱いて遊んで暮らすのが一番良いわと、
そういう所に行き着いちゃいますよ。
人間の本音を全部剥き出しにして言って
しまったら、動物になっちゃいますもの。
動物の本性の言葉が結局は本音で、
プライベートな言葉っていうことに
なっちゃいますから、本当はそこを乗り越え
なければいけないんであって、人間は
自然に生きていれば、社会の中でちゃんと
生活していれば、いつのまにか
公的な言葉と私的な言葉というのは
同時に生まれてくるものなんですよ。
それを戦時中の兵士、軍人たちに託して
描いたわけだけれども、例えば当時の人達は
誰も本当のことを言えば特攻隊に行きたく
なかったはずだとか言ってくる輩がいる。
行きたくない人もおるのは当たり前ですよ。
本音の部分で言えば、兵隊にだって行きたく
ないに決まっているんだから。
誰も死にたくはないし、誰も殺したくはないし、
そんなことは当たり前なわけですからね。
だから、自分のお母さんに宛てたプライベート
な手紙に「お母さん、僕は明日死ぬかも
しれません。すごく悲しいです。お母さんに
会えないかも知れません。僕はお母さんの
名前を呼んで死んでいくことでしょう」と
書くかも知れませんよ。でも、もう片一方で、
人前に出た時は自分は自分の仲間を捨てられ
ないと、自分の故郷の人間達を捨てられない、
自分は国のために戦う、天皇のために戦うと
言って死んでいくわけですよ。
それは公的な意識ですよ。
本当は人間は皆同時に持ってるんですよ。
それを戦後左翼の人間達が例えば私信とか
そういうものまで全部ほじくり返して、ほら
本当は行きたくなかったんじゃないか、ほら
本音はみんな死にたくないんだろう、本音は
戦争は嫌なんだと、それだけを言いますけれども、
それだけが人間の言葉の全てじゃないんですよ。
本当は死にたくない。とにかく行きたくない。
しかしながら、自分は守らなければいけない
っていくところにその公的な言葉が現れる
わけで、そこもある意味で言えば本音と言えば
本音ですし、自分のもう一つの気持ちなんですよ。
「ゴーマニズム宣言」を描いていれば、
オウムのことは触れたくない、オウムのこと
なんか描いたら絶対復讐に来る、嫌がらせに来る、
抗議に来る、あれだけは止めた方がいい、
周りの人間はみんな言いましたよ。
みんな言ったけれども、どう考えたって
坂本弁護士事件の犯人はオウムなのに、
何で今はオウムじゃないという話になっちゃっ
てるんだという疑問が、どう考えたってある
わけだし、それは怖くて嫌だけれども言わな
ければいけないと思い定めて言っちゃうわけ
でしょう。言ったら抗議が来るし、後から
尾行され始めるわけですよ。
尾行されれば怖いですよ。本当に本音主義が
正しくて素晴らしいことならば
「描くのはもうやっぱり止めます」と
「僕は怖いですから」と言っちゃえばいい。
それが私的な言葉でしょう。
けれども、そうはいかない。これを
このまま放置していたら、やっぱり
ある一家がそのまま拉致されたままで、
どういう状態になってるのか分からない。
ちゃんと普通の生活に帰してあげなければ
ならない。あるいは殺されてるのかもしれない。
それにこういう危険性はあちこちで起こって
いるような気がする。それはオウムの機関誌
なんか見てみれば何となく分かるんですよ。
どうもあっちこっちで拉致して洗脳したり
しているんじゃないかと。
松本サリン事件が起こった時も、
「ヴァジラヤーナ・サッチャ」という彼等の
機関誌を見たら、毒ガスの話ばっかりしてるん
ですよ。毒ガスに襲われたとか、尊師が車で
移動してたら、両脇から何物かが毒ガスを
撒いて去って行ったと載っているんですよ。
おかしい、これは。
松本サリンの時、毒ガスで周辺の住民が
死んだ。
あんな変な事件がこの日本で起こるなんて
おかしい。片やオウムの機関誌の中に毒ガスの
話ばっかリ載っている。これは一体何なんだ。
これはとんでもないことが起こるんじゃないか
というような予感とかあるわけでしょう。
怖いけど、やっぱり私心を超えて警告して
いかなければならないというのがあるわけじゃ
ないですか。
私的な言葉を乗り越えて公的な言葉を
持たなきゃいけないこと、発しなければいけない
ことが世の中いくらでもありますよ。そこを全部
含めて人間の言葉だっていうことを認識しないと。
全部プライベートな言葉だけ取っていって
出版した『きけわだつみのこえ』も、やはり個々の
兵隊の言葉の中には、「国のために自分は死ぬ」
という公的な言葉もあったようで、それを全部
削除していたことがわかっています。
そんなばかな話がある訳ないんであって、
それも人間全体の言葉なんですからね。
(「翼」平成11年1月号)
先日の「サンデーCROSS」の
あの街頭インタビューの件などは、
まさにここで話しているような
「公的な言葉」が、20年の時を経て
復活した事例と言えるでしょう。
そして、オウムと戦った時の
生々しい体験から来た「公的な言葉」に
ついての話、これほど説得力のある
ものはありません!