哲学者で津田塾大学教授の萱野稔人氏。
近頃、フランス革命を巡る文章の中でこんな指摘をされている。「日本という近代的な国民国家に暮らしていると、世界は国民国家化、近代化に向けて収斂(しゅうれん)していくだろうと世界史を単線的に見がちだが、『アラブの春』の失敗やロシア、中国などの動向を見ていると、その見方をあらためて見直さざるをえない」「世界史や国民国家を再考するために、封建制と国民国家の親和性や連続性を考察すべきではないだろうか」「フランス革命と旧体制の断絶ばかりが強調されてきたが、(19世紀のフランスの思想家、アレクシス・ド・)トクヴィルは旧体制で進みつつあった変化を土台に革命後の新体制が築かれたことを実証的に述べた」「翻(ひるがえ)って日本の歴史を見れば、江戸時代が封建制から近代的な国民国家への移行期と考えられないだろうか」「反近代と考えられてきた封建制には、近代につながる要素が意外なほど多い」「日本もフランスも封建制があった地域だからこそ、すみやかに近代的な国民国家に移行できたのではないか、という仮説が立てられる。…逆に国民国家に向かない社会構造を持つ地域も明らかになるだろう」(「フランス革命が明かす『暴力』と国家の真実」初出は平成29年)これを読んで「意外」だったのは、世間では今も「封建制」=「反近代」と「考えられて」いるのか、という点だ。人々がトクヴィルの『旧体制と大革命』(最初の邦訳は「アンシャン・レジームと革命」との題名で昭和49年に刊行)を読んでいなくても、既に「封建制があった地域だからこそ、すみやかに近代的な国民国家に移行できた」という見方が、むしろ常識になっていると思っていたからだ。何しろ、私が中学生の頃に読んだ文化人類学者、梅棹忠夫の極めて著名な著作『文明の生態史観』(昭和42年刊行)には、もうそのような視点が明確に打ち出されていた(メイン論文の初出は昭和32年)。「資本主義に先行し、ブルジョアを育成したところの封建体制」と。そこでは「国民国家に向かない社会構造を持つ地域」についての明快な理論的見通しも、いち早く示されていた(有名な「第1地域・第2地域」論)。日本で昭和40年に刊行されたエドウィン・ライシャワーの『日本近代の新しい見方』にも、「封建主義的な経験そのものが、近代化を促す要因を生んだ」という命題が掲げられていた(そのタネ本の1つはウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム〔東洋的専制主義〕』、原著の刊行は1957〔昭和32〕年、邦訳は平成2年)。それから半世紀余りの歳月が流れた。にも拘らず、いまだに「封建制は反近代なのか」(萱野論文の小見出し)という旧式な問いかけが通用している事実に、些(いささ)か驚いた。古くは、かの文豪・島崎藤村(とうそん)が大正7年(今年から丁度100年前!)に刊行した『海へ』と題するエッセイ集に、次のように述べていた(引用は『藤村文明論集』昭和63年刊行より)。「僕は斯様(こん)な風にも考える。印度(インド)や埃及(エジプト)や土耳其(トルコ)あたりには古代と近代しかない、と言った人の説には全く賛成だ。幸い僕らの国には中世があった。封建時代があった。長崎が新嘉堡(シンガポール=イギリスの植民地)にならなかったばかりじゃない、僕らの国が今日(こんにち)あるのは封建時代の賜物(たまもの)じゃないかと思うよ。見給(たま)え、日本の兵隊が強いなんて言っても、皆な封建時代から伝わってきたものの近代化だ」(「『エトランゼエ』との対話」)「幸いにしてわが長崎は新嘉坡(シンガポール)たることを免れたのだ。それを私は天佑(てんゆう=天の助け)の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力のみに帰したくない。その理由を辿(たど)って見ると種々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えて見たい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。…(わが国が)印度(=イギリスの植民地)でも支那(シナ=西欧列強の半植民地)でもないのは、彼様(ああ)いう時代(封建時代)を所有したからではないか。今日の日本文明とは、要するにわが国の封建制度が遺(のこ)して置いて行ってくれたものの近代化では
ないか」(「故国に帰りて」)―