朝日新聞vs小川榮太郎の公判にまた行ってきたけど。
前回あふれるほどの傍聴人だったので、今回から東京地裁の一番大きな法廷で行われることになったんだけど、なんだか人気なくて、がら空きだった。
ゴー宣道場がこんな状態だったら、恐ろしくてたまらないわ、とか、めちゃくちゃ勝手なこと考えていた。
人気の問題じゃないか。
なんにしろ、次回はお盆をはさむから9月になるということだけど、もう朝日新聞が正しかったことが明らかになりすぎているし、その頃の情勢考えると、一体どうなっちゃうんだろうね。
不完全燃焼のまま裁判所を出て、近くのラーメン屋で香港麺をすすりながら「世間に流される人たち」「ネトウヨになる人、ならない人」について話し合った。腹立つぐらいまずいラーメンだったけど、議論は有意義でおもしろい結論が出た。
そして帰りの電車のなかで、やっぱり芸術論、文学論みたいなのってもっと必要なのかなというところに結び付いた。芸術家と偏執性シリーズ、もう少しつづけようかな。
写真はアンドレ・ブルトンの「ナジャ」。
パリで出会った奇天烈でシュールな女・ナジャが、どんどんブルトンの感性を刺激していくという不思議な自伝小説。
「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」
(巖谷國士訳)という名文で終わる。