天皇の歴史を巡って、右派も左派も、共通の思い込みがあったのではないか。
それは歴史上、天皇と武家が「対立」していたという認識だ。
それを前提に、右派の見方では―武家が長年、政治の実権を掌握し、
天皇は武家権力の圧迫下にあったのに、武家は最後まで天皇という存在を否定できなかった。だから、天皇は凄い!という話になる。
一方、左派だと―天皇は形式的には存続したけど、
その実態は武家に圧倒された、無力な飾り物に過ぎなかった。だから、天皇なんて大したことない!となる。
どちらも、天皇と武家は常に対立し、互いに相手を否定する存在と捉えている。
ところが、近年の歴史学の見方は違う。
「(鎌倉幕府を開いた源)頼朝はあくまでも後白河法皇を守る
武士としての立場を踏み外したことはありません。
もし、そんなことをすれば、自分が武家の棟梁(とうりょう)である
ということの正当性を失ってしまうからです。
こうした国家体制は、中世を通じて続きます。…朝廷と幕府が
中世国家の重要な構成要素になりますが、
それは両者が対抗関係にあって均衡を維持しているということではありません。朝廷と幕府の併存を、両者がともに維持しようとしていたのです。
…承久の乱が幕府側の圧倒的勝利に終わり、
後鳥羽(上皇)をはじめとする3上皇を配流し、
天皇を廃しても、幕府は天皇制を潰そうとは夢にも思いませんでした。むしろ、傍流の皇族から天皇を擁立するなど、懸命に朝廷の再建を行っていくのです。
幕府の正当性を保証するものが、朝廷だったからです。
…(平安時代の)摂関(せっかん)政治というのは、
天皇の外戚であることが摂関(摂政・関白)の権力の源泉であり、
天皇を離れて自立できるようなものではありません。この時代は、天皇と摂関が対立しているわけではなく、
摂関は天皇の保護者として天皇の政治を代行しているのです。そして、鎌倉・室町の時代は、幕府が国家の軍事・警察・徴税などを代行する体制でした。
幕府の守護・地頭などの警察力があるから、
京都の公家は、荘園からの年貢も受け取れたわけです。そして幕府も、朝廷から認められているから、
そうした役割を担う正当性を得ていたのですから、
両者は依存関係にありました。どちらかがどちらかを打倒する、というような関係ではないのです」
(山本博文氏)このような理解の仕方が歴史学の分野では普通だろう。
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