近隣住民に配慮して、除夜の鐘をつくのを中止する寺が各地に
現れているそうだ。
「音がうるさい」「興味がない」「自分は仏教じゃない」
自分は仏教じゃない、というのはポリティカル・コレクトネスだと思うが、
108回ついている間に、寺に「いい加減にしろ」「いつまでやってるんだ」
とクレームの電話が鳴りつづけるのだという。
寺も3年ほどは耐えたそうだが、今年は中止することにしました、と。
寺の周辺が住宅密集地になって、鐘と住宅の距離が近づきすぎてしまい、
確かにその住宅にとっては「騒音」になってしまっているというケースも
あるらしい。
ほとんどの人は、除夜の鐘と言えば「日本の風物詩」と考えると思うが、
それを理解できずに中止に追い込むまで我を通す人が増えている現象
は「民主主義という病い」なのだろうし、なにより寂しいことだなと思う。
子供のころ、祖母や両親と一緒に近くの観音寺で、鐘をついたことが
あった。大きくなると、寒さが億劫で寺までは行かなくなったが、
年越しのテレビを見ながら、遠くから聞こえる除夜の鐘の音を聞いて、
一年の終わりを実感した。
父が、二階の窓をあけて、冷たくピンと張った大晦日の晩の空気を吸い
ながら、鐘の音の方角を眺める後姿も記憶している。
東京に出てきて、特に都心部に住むと、鐘の音はどこからも聞こえて
こなくなった。
子どもの頃の体験があるので、除夜の鐘と聞けば「風物詩」としてスッと
認識することができるが、こうして中止に追い込まれていくと、その回路
を持てない人がどんどん増えてゆき、よほど巨大な敷地を持つ著名な
寺のほかでは、除夜の鐘は廃れるのだと思う。
除夜の鐘中止現象は、保育園建設反対運動とも似ていると思う。
子供たちの遊ぶ姿が町なかで目に入らなくなり、理解することができず、
保育園を「軍用基地かなにか」のような目で見てしまう。
「保育園落ちた日本死ね」があれだけの反響を呼んだのに、一方では、
自分の生活の安泰だけに固執して、「なんでここに作るのか!」と文句
を言う。
まもなく3軒に1軒が空き家になるような時期が訪れるとわかっている
のに。
いびつな時代だ。