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倉持麟太郎
2018.1.23 16:15

嘘と飛躍と矛盾まみれの百地章「正論」PART2

3.「自衛隊明記」は自衛隊の活動範囲を広げない、の嘘

 

次に、百地氏は、

「自衛隊の明記はあくまで自衛隊の「地位」に関わるものであ」り、「自衛隊の憲法明記だけで自衛隊の「権限」が拡大したり、行動範囲が広がったりすることはない」

という。

 

これも嘘だ。自衛隊の「地位」と「活動」という言い方をしているが、これは要は自衛隊の存在(組織法)と自衛隊の権能(作用法)の話である。

 

憲法は、国家機関について、その「地位=存在」と「活動=権能」について定めている。

当然である、立憲主義の要諦は、その権力の地位を正当化しつつも、その権力に無限定のスーパーパワーを与えるのではなく、それを統制する、制限することにあるからだ。だからこそその権力が何をできるかを規定することによって統制する。

たとえば、国会は唯一の立法機関として(憲法41条)、国会という「地位」と立法をしますよ、という「活動」を定めている。

行政権の属する「内閣」(憲法65条)についても、その権能(73条)について定めている。

裁判所も(76条)、司法権(第6章)の章に規定し、その「地位」と「活動」を規定している。もちろん、裁判所が外交交渉にあたったり、内閣が法律をつくっちゃったり、国会が急に裁判をしだすということはできない。

しかし、「自衛隊明記」はどうだろう。その地位だけを認めて「権能」については規定しないのであれば、その機関がどのような権能を持つのか、また、行使するのか、ということがまったく規定されていないことになる。

すなわち、その権限の拡大を「許容している」ことになる。

自衛隊明記した瞬間に自衛隊の権限が拡大するとは断言はできないが、少なくとも、本当に「限定的」かどうか外延が不明な集団的自衛権を行使できる極めて法的に不安定な安保法制を前提として自衛隊の行動範囲(権能)を追認し、お墨付きを与える。
 しかも、その行動範囲を法律で定めることができるとしたら?時の多数派がいかようにでも自衛隊の行動範囲を決めることができてしまうではないか。

こうしたあらゆる意味で、自衛隊の行動範囲が拡大することを許容することは間違いない。

つまり、「行動範囲が広がったりすることはない」という百地氏の主張は、嘘である。

 

 第一、それ以前に、国家権力最大の暴力たる軍隊の行使する権能(自衛権)についてまったく統制しないというのは、百地氏は立憲主義をとらないということなのだろうか。立憲主義にコミットするかどうかは、人間の共存のプロジェクトと国民主権国家を採用した時点で自明のことでもあり、イデオロギーとは無関係のはずである。

 学問的良心があるのであれば、立憲主義のことは配慮せずに、安倍加憲を配慮しまくって「憲法違反ではない」を連呼する壊れたラジオに成り下がってほしくない。

 

4.国際法至上主義?主権の放棄?売国奴的な、嘘

さらに百地氏は

「集団的自衛権は国連憲章51条によってすべての加盟国に認められた主権国家に固有の権利であり、しかも平和安全法制はその限定的行使を認めただけだから、憲法違反ではないことは明らかである。」

という

 

 

国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり、その国の当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別問題である。国際法上認められているから自国憲法で自動的に合憲となる、ということにはならない。

その国の憲法上可能な武力行使の範囲と、それが国際法上どのように評価されるかは別問題である。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。

国際法至上主義(?)の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。 

百地氏のように、国際法上認められている権利であれば憲法違反ではない、ということならば、侵略戦争が国際法で認められれば侵略戦争も憲法違反ではなくなってしまう。「いや、そこまで言ってない」というのかもしれないが、論理的にはそういうことを言っているのだ、その趣旨でないならばそう記述すべきである。法律家でないなら納得するが、少なくとも法律家なら。

 

5.最高裁が合憲と判断できるために明記という嘘

 最後に、百地氏は、裁判所との関係も語る。

(自衛隊に関しての)「裁判所の判断は曖昧であり、高裁判決を含め多くは「統治行為論」(国家の基本にかかわる高度に政治的な問題については、国会や内閣の判断に委ねるという理論)を採用し、正面からの判断を避けてきた。」

「最終的な憲法判断を行う最高裁が正面から合憲判断が下せるよう、自衛隊を憲法に明記し、その法的地位を確立しておく必要がある。」

 

 しかし、上に見たように、9条2項が空文化しないのであれば、いくら自衛隊を必要最小限度の実力組織として憲法に明記したとしても、その後も常に、その「実力組織」が「戦力」にあたらないかということは吟味され続ける。

つまり、自衛隊の明記それだけでは、自動的に最高裁が合憲判決を下す法的地位を自衛隊に与えることにはならない。

 加えて、おそらく、現在の違憲審査制度のもとでは、その実力組織が「戦力」にあたるか否かは、前述の百地氏自身の指摘する「統治行為論」によって、判断を回避されるのではないか。

 「自衛隊の明記」をすれば「最高裁が合憲判決を下せる…法的地位を確立する」ということにはならない。

 さらにいえば、先述のとおり、自衛隊の活動範囲も外延が不明確なのだから、有事の際に憲法に照らして自衛隊の行動が合憲か違憲かという点については自明に確定できるということはなく、従前同様引き続き法的に不安定な状態である。

 すなわち、百地氏の立論は、残念ながら、自身が最初にたてた命題である「自衛隊明記」が「法的安定確保」の立証には失敗している。

 

以上、百地氏の嘘と矛盾を指摘したが、はっきりいって疲れた。とても疲れた。こんなことをするくらいなら、ウイスキーを飲みながらラヴェルでも聴いていたい。しかも、曲がりなりにも法律家として、憲法研究者として存在しているのに、こんなことを変節しながら堂々と書いて恥ずかしくないのか。もっとまともな論理を展開してほしい。これに対していちいち反駁するのは、知的作業としても質が低く、疲れる。相反する議論との知的な交戦によって自分が高みにいけるあのときのような昇華や生産性も感じない。

しかし、しょうがない、そういうレベルなのだ。しかも、一見まともらしく装うことはなかなかうまい。

 

おかしいことを細かくいちいちおかしいということは実はとても重要なことである。

「自分たちはそれより上のレベルにある」ことの表明を、批判をしないこと(同じ土俵にならないこと)や無視することで行ってきたこと、細かくいちいち反駁することを怠ってきたツケが、ヘイトスピーチや権力の弛緩・肥大化といった社会の膿や機能不全が大手を振って存在する原因の一端になってしまってはいないか。

とても労力のいる作業だが、心身をすり減らしながらこれをやらねばならない。だってそういう社会に、そういう時代に生まれて生きてるんだもん。

 

それでも、自分として生きる価値のある時代であり人生であるという確信は揺るがない。

 

さ、次はフォークトの退廃的で気だるいショパンでも聴くかな。

2018年、「長すぎて読みにくいから二つに分ける」くらいには成長しました。

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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