過日、図らずも馬淵澄夫氏の口から、
そこで、
精神を拝する緒(いとぐち)として、
「冤(
必ず幽冥(
尊ぶることは、
(神亀2年〈725〉7月17日)
「責め深きことは予(われ)に在(あ)り」
(同年9月22日)
「朕(われ)は百姓(はくせい=国民)の父母(ぶも)とあり。
(同3年6月14日)
「天下(あめのした)とこの歓慶(よろこび)を共にせむ」
(
「朕、徳を施すこと明らかならず、なお、懈(おこた)り
缺(か)
(同4年2月21日)
「安不(あんふ)の事、予一人に在り」
(天平2年〈730〉
「実(まこと)に朕(わ)が不徳を以(もち)て致す所なり」
(
「責めは予一人に在り」
(同6年7月12日)
「(地方行政にあたる国司らの)或人(あるひと)は
虚事(
公家(おおやけ)
此(これ)に因(
弊(つい)え損(
理(ことわり)然(
(同7年閏〈うるう〉11月21日)
「事(こと)成り易(やす)く、心至り難し」
(
まことに舌足らずな引用ながら、
千年以上の歳月を隔てて、