●民主主義と相いれない司法権というジレンマ
衆議院選挙のときに、いつも有権者にとってわけがわからないのが、最高裁判所裁判官の国民審査であろう。
そもそも、立憲主義の観点からすれば、民主的決定の是非を判断するために、非民主的機関として、専門職能のみによって構成された裁判所に独立が認められていることからすれば、裁判所に民意を入れること(裁判員?国民審査?)とは原理的に緊張関係があることを理解しなければならない。かなり高度な専門性を要求される裁判官が国民投票や選挙で選ばれることになってしまっては、民主主義の歯止めの立憲主義の牙城としての役割は果たせない。
これらのことを併せ考えれば、この国民審査は、裁判官の選ばれ方自体を審査したり、判決内容を事後的に評価するということが主眼になろう。
では、最高裁判所の裁判官はどのように選ばれるのか。
●慣例による「司法権の独立」の確保
憲法79条は、最高裁判事は、内閣がこれを任命する、とする。その後、天皇陛下によって認証される。
この内閣の任命がポイントだが、ここには「慣例」のしばりがあった。
最高裁判事の定員は長官含めて15名であり、この15名がどのような人間から選ばれるかといえば、母体となる「枠」があるとされている。
その「枠」とは、以下のとおりである。
裁判官出身6名、弁護士出身4名、行政官僚出身2名、検察官出身2名、法学者出身1名
では、このそれぞれの人選をどのように判断するかといえば、端的にいうと、最高裁の意向が強く反映され、それに内閣も従うという「慣例」が、Unwritten Ruleとして存在していた。「最高裁裁判官の任命について」という2002年作成の文書でも、最高裁に最適任候補について意見を聴くことというのが慣例化されていた。
最高裁は、「裁判官出身枠」・「法学者枠」は最高裁自身で人選をする。「検察官出身枠」・「行政官僚出身枠」は検察庁や法務省・内閣法制局・外務省等の意向を尊重して最高裁が総合的見地から最終的に選んでいく。「弁護士出身枠」は日本弁護士連合会の推薦で選ぶ(これは、我々にも弁護士自治があるからにほかならない)。最終的に、最高裁がこれらを集約し、それをもって内閣と懇談をして、最終的な人選決定が行われていくこととなる。
これは、憲法上「内閣の任命」となっている者に対して、民主主義に抗する存在、憲法の番人としての最高裁の性格から、政治部門から独立した人選により、慣例的に最高裁を実質的採取決定権者として「司法権の独立」を確保してきたということである。
●「人事権の掌握」と書いて「安倍1強」と読む
しかし、この慣例を「ぶっ壊した」のが、そう、安倍晋三である。
日本だけでなく、政治の世界も、慣例に則って執り行われることが多いし、それによって作法が守られているということがある。
悪しき慣例はぶっ壊せばよい、しかし、安倍政権は、あらゆる「善き」慣例をぶっ壊してきた。内閣法制局や宮内庁をはじめとした役人人事、議会運営としても、安保法制のときに、地方公聴会の報告なしでの採決や、採決後に「議場騒然、聴取不能」とされていた議事録改ざん・ねつ造。共謀罪審議での中間報告での法案通過等、「憲政史上1例もない」蛮行を繰り返してきた。なぜか、すべて「慣例」だからだ。明文憲法も守らないのであれば、慣例なんかクソくらえ!!
やはり、安倍総理は、「歴史上」「唯一」善き慣例を破壊してきた「レジェンド」(皮肉)である。
最高裁人事については、いくつかの慣例の破壊と内閣の介入があった。
平成29年3月2日の朝日新聞によれば、最高裁が推薦した人事を杉田官房副長官補が覆した過程を次のように書いている。
「退官する最高裁裁判官の後任人事案。最高裁担当者が示したのが候補者1人だけだったことについて、杉田氏がその示し方に注文を付けた。杉田氏は事務の副長官で、こうした調整を行う官僚のトップだ。退官が決まっていたのは、地裁や高裁の裁判官を務めた職業裁判官。最高裁は出身別に枠があり、「職業裁判官枠」の判事の後任は、最高裁が推薦した1人を内閣がそのまま認めることがそれまでの「慣例」だった。これを覆す杉田氏の判断について、官邸幹部は「1人だけ出してきたものを内閣の決定として『ハイ』と認める従来がおかしかった。内閣が決める制度になっているんだから」と解説する。」
内閣が決める制度になどなっていなかった。それを、壊した。
次に象徴的だったのが、平成29年1月13日閣議決定人事として採用された、山口厚教授(刑法)の最高裁判事任命であった。山口教授は、法学部生ならだれでも知っている刑法学の有名教授である。東京大学名誉教授、司法試験委員会委員長、日本刑法学会理事長等を歴任された生粋の学者で、結果無価値論の論陣の急先鋒として、東大刑法の頂点に存在していた「法学者」である。
その山口教授が、「弁護士枠」ということで最高裁判事として任命されたのである。
たしかに、山口教授は、平成28年に第一東京弁護士会に弁護士登録をされている。
ここで問題なのは、実質的に弁護士といえるのか?ということもさることながら、このときの人事において、上記の慣例にしたがって、日本弁護士連合会が提出した推薦人名簿には山口教授の名前は入っていなかったというのだ。
つまり、ここには、「弁護士枠」の名で「法学者」を入れることにより、「弁護士枠」の1枠減少というメッセージと、日弁連からの推薦人の採用という今までの慣例の破壊が明確に看取できるのだ。
これにより、弁護士枠は4から3へ、法学者枠が実質的に1から2へ
弁護士(!)は、ときに政権批判(!!)することが多い(!!!)。そういう集団は枠が減るぞ。弁護士枠がほしいならいうことをきけ。
そこまで明らかかどうかは別として、これまた、人事によるコントロールである。
とうとう、司法権の独立にまで、内閣の手が及んでいる。
だからこそ、もしリベラル改憲提案としての憲法裁判所が創設される折には、その人事の国会関与等、内閣の手から人事権を解放、統制しなければならない。
●結局国民審査はどうすればいいのか
暴論としては、安倍内閣下で選定された今回の審査対象全員につき、その人選過程への抗議として「×」をつけるというのもよろしいだろう。これは、はっきりいって「個人には責任ないのに」というやつである。
個人としてみるときは、もちろん出身や人となり(加計学園監事がいる??)、判断した裁判での判決内容。補足意見、個別意見、反対意見の内容等で判断するのが方法だろう。特に、一人一票訴訟や、夫婦別姓等重要な憲法問題や人権問題に関する判決は色が出やすい。
それぞれの最高裁判事の過去の判決やプロフィールについては、津田大介氏のポリタスが簡潔にまとめているので、参照されたい。
http://politas.jp/features/13/article/579
慣例は、目に見えないからこそ、一度壊れたら元に戻すのは極めて難しい。数字や記号で明確なラインも引かれていない。壊してしまえば、そこがラインとなり、新たな「慣例」となってしまう。まったく不合理な変遷をしても、嘘をついても「新しい判断」とうそぶいた人格と通底しているのではないか。
司法権も、議会も、そして日本も、安倍晋三によって「独立」が脅かされている