聖徳太子の「憲法十七条」。
津田左右吉以来、
疑問を投げ掛ける声があった。
しかし近年は、細かな表現における潤色はあっても、
(東野治之、
それを踏まえて、
指摘しておきたい。
それは冒頭、“総論”的な性格を持つ、
第1条から第3条までの、
第3条に「詔(みことのり)を承(
必ず謹(つつし)め(原文は、承詔必謹)」
言うまでもなく天皇の「詔」の絶対性を強調した条文だ
(
〔
古代統一国家を確立する上で、極めて重要な意味を持つ。
にも拘らず、“第1条”には据えられていない。
その前の第2条には、
「篤(あつく)く三宝(さんぽう)を敬え」
仏教を敬重せよ、と。
これは、謂わば当時における
「
憲法十七条は、「
仏教尊重を優先している(この事実は、
捏造でない証拠の1つ、とされている)。
では、更にその前の、第1条は?
「和(ワ又は、やわらぐ)を以(もち)て
貴(たふと)しとなし、
宗(むね)とせよ」と。
漢籍の『礼記(
「礼は之(こ)
「礼の和を用(もち)
そこから、儒教の「礼」
理念として掲げた条文という理解が、
しかし、そうではあるまい。
何故なら「礼」
第4条に回されているからだ。
「群卿(ぐんけい、
百寮(はくりょう、中下級官人)、
礼を以ちて本(
だから、
憲法十七条は、
それらの全てより、
そこには、
条文全体の趣旨は概ね以下の通り。
「人は皆、
だから、
しかし、上下が(党派性や先入観、偏見を捨てて)
仲良く議論すれば、
だから、
しないように」。
これは、一言で言えば「議論の勧め」だ。
虚心坦懐(
いささか意外かも知れない。
一般には、「和を以て尊しとなす」という、
少し変形した表現“
だから、普通は
「
しかし、
しっかり議論しよう、
と言うメッセージ。
誰しも大局はなかなか見通せない。
ややもすると先入観や偏見、
人は皆、不完全な存在。
だからこそ議論が大切だ。
その場合、相手に敢えて逆らおう、
そうではなく、「和」
これを、
冒頭に置いている。
聖徳太子の卓越した見識は驚くばかりだ。
と同時に、
それを最優先させる伝統が、それまでの日本の社会にあったと
考えるべきだろう。
多様性を前提とした、寛容と議論の伝統
(日本の神話にも八百万〔
議論した様子が描かれている)。
その伝統を明確に自覚し、
改めて理念化したのが天才、
ちなみに、
そこにはこうある。
「夫(そ)れ事は独断すべからず。
必ず衆と論(あげつら)
大切な事は1人で勝手に決めてはならない。
必ず衆議を尽くして決定すべきである、と。
ここでも、
或いは、
「
心があれば、
しかし、意見が対立した時には錯覚しがちだが、
どちらも、
平凡な人間に過ぎない」(第10条)
透徹した人間観であり、それに立脚して、
現代の私どもが「保守」すべき「伝統」とは、
その1つは、
社会的背景となった精神であ
価値そのものだろう。