10月8日、私にとっては久々の「シャバ」であった。
いただいた機会でどのような話をするか。私は社会にとって役に立つ人間なのか、自問自答する日々だった。
しかし、師範方や門弟の方々がリスクをとって与えてくださったこの場で、今まで自分が何をしてきたか、特にこの数か月、日常業務や、その時々の問題(皇位、共謀罪等)との闘いをしながらも、ずっと温めてきたものについての現時点でのまとめをお話したいと考えた。
それが、「リベラルな改憲論」である。
まずは、そもそも、憲法を語るときに、憲法の価値を規定する価値が、憲法のさらに上位にあるはずだと考えられる。これは憲法の成り立ちと密接に結びつく。
それが、個々人が自分らしく個性を発揮して生きながら、同時に、それらが共に生きる社会をつくることである。
個人の尊厳、人格の根源的対等性、多様性と包摂性、これらを認め、そして、そのために、我々自身が、これらの価値をよりよく運用させるべく作り出したフィクションである国家という権力を統制する。
これは、教科書的に立憲主義の本籍のように言われる1791年のフランス人権宣言16条にある「権利の保障がなされず、権力が分立していない社会は、憲法をもつものとはいえない」という概念とぴったり一致する。
この価値が、まさに個人が自分らしく生きる、自らの生の物語は自分でしかないという個人の自由の価値を最大化するというリベラルな価値である。
現在、日本国憲法は、法と信頼を蹂躙する為政者により、個人の自由の実践的保障、そして権力の統制という観点から、瀕死状態である。そこで、憲法の上位概念であるはずのリベラルな価値に規定された憲法改正をすべきである。
具体的には、国家最大の暴力である軍事権を統制する。これは、9条の交戦権と戦力について真正面から論じ、9条だけでなく、シビリアンコントロールや軍法会議の創設等のパッケージでの改正論となる。また、9条の魂である「軍縮」の精神を書き込みたい。
そして、権利の実践的保障の見地から、憲法裁判所の創設も提案したい。事件の解決のためだけの裁判所でなく、よりひろく一般的抽象的に、「価値」を守り、権力の均衡の歪みを是正する機関を置くべきである。
さらには、フランス2008年憲法改正の議論も参照し、根源的な国家ビジョンや政治哲学に基づいたテーマ設定をもとに憲法改正すべきであり、これによれば、憲法の条文をいじるということだけではなく、憲法附属法の改正等も視野にいれたかなり大きな憲法改革の議論にならざるを得ない。だからこそ、「一回だけ」の改正ではなく、5年?10年かけて段階的にこのくにのかたちを作っていくような改憲論議をしたいと考える。
このとき、改憲論議の軸になるのが「リベラルな価値」である。
大まかにこのような内容であった。
よしりん先生や高森先生からの自主独立といった視点はとても参考になった。私もグローバリゼーションの中での世界市民的な「個人」を想定していたわけではない。概念の普遍性を前提にしたまでだ。その国の主権と国家をいう枠組みは前提としている。
だからこそ、日本的なリベラリズムや立憲主義の形の模索という、議論の接合は、大変に知的好奇心を煽った。是非、今後も議論と研究を継続し、リベラルな改憲論と、そのような日本オリジナルな要素との幸福な結合を目指したい。
あの日は本当に疲れて次の日も起きられなかった。
朝起きて、熱いコーヒーを飲みながら、チェリビダッケ指揮ロンドン交響楽団の演奏で、ラヴェルの『マ・メール・ロワ』を聴いた。大切な思い出の曲だ。冒頭の「眠れる森の美女のパヴァーヌ」の絹がこすれるような弱音と、いつまでも続いてしまいそうな最終音から、同じあゆみでフィナーレを飾る「妖精の園」の豊かで孤独、そしてどこか非日常な音楽が、とてもその日のムードにマッチして、またこの曲が思い出になった。きっと、次もまた近い未来にくる節目に、この幻想的でどこか寂しいマザーグースの物語を、聴くことになるのだろう。
まだまだ選挙後の日本社会がどうなるかわからない、しかし、大事なのは、我々一人一人がどのような信念で、どのような価値を真に大切に思うかである。大事なのは、相手の球を読んだり、対応のテクニックに苦慮するよりも、自分のバットスイングを確かにすることだ。
そのために、今から何が本当に普遍的な価値かをしっかりと獲得すべきである。
選挙後、大阪の道場は、今後の日本で我々がどのように歩むのかの価値をよりたくましくするチャンスである。11月12日、大阪道場、注目である。締め切りは11月1日、是非ご参加ください。