●自民党の憲法ビジョンは何長調?
自民党が、公約に改憲を掲げた。
1.9条に「自衛隊」明記の加憲
2.教育無償化
3.緊急事態条項(議員の任期延長含む)
4.合区解消
の4項目である。安倍総理が今年5月3日に掲げたものと同じである。
そもそも各論的に
1.9条2項で戦力を否定し交戦権を否認しているにもかかわらず、自衛隊という軍隊を保持してきたこと(自衛隊創設という解釈改憲)及びこれによって交戦権否認の裏街道で、集団的自衛権まで肥大化した「自衛権」の名のもとに交戦権と同じ措置を可能にしてきた「嘘」をこれからもつき続ける宣言であること。
一方で、真正面から軍の存在を認めないがゆえに、相変わらずこれを統制することができないこと。
加えて、自衛隊による組織的な武力行使を真正面から認められないがゆえに、米艦防護や駆けつけ警護をもする交戦主体にもかかわらず、その主体は法文上「自衛官」とされ、全責任は自衛官個人が負い、裁定はなんと「刑法」でされる。これのどこが自衛官の名誉の向上なのだろうか。
2.教育無償化は、財源論含め、完全に法律で実施できるしすべきである。憲法改正の作法にも書いたが、改憲の必要性たる「憲法事実」が存在しない。
3.緊急事態条項については、これも、自民党が想定しているのは自然災害であるが、これは災害大国日本にあって、世界トップクラスに法律レベルでの整備がすでにできている。平成28年の通常国会においても、防衛大臣、災害担当大臣が口をそろえて「これ以上の法整備はいっさい必要ありません」と答弁している。ドイツは緊急事態についてかなり詳細に憲法で規定しているが、これとほぼ同内容そしてボリュームときめ細やかさからしたらそれ以上の法律群が、日本には存在している。
議員の任期延長についても、災害時に選挙ができる体制を整えるということからすれば、公職選挙法の改正で対応可能である。
だいたい、ヨーロッパ等で緊急事態といえば、それはいわゆる武力攻撃事態、すなわち戦争のときのことである。これについては、もちろん法律レベルでも規定もあるし、まずは真正面から9条を議論すべきという1に戻るのである。
4.合区解消については、「都道府県代表」というキャッチフレーズのもとに、参議院の代表システム変革を標ぼうするが、最高裁も含めて、「都道府県代表」と真っ向から対立する価値であると表明しているのが、「一人一票」の価値、投票価値の平等である。これは、選挙権の平等(憲法14条、43条)という「一人一票であるべきだ」という個人の主観的権利をこえて、民主主義に関わる問題である。すなわち、地域ごとにあまりに投票価値に差があると(たとえば、東京の人が6人投票して島根の人一人の1票など)、国民の多数派と、国会内多数派の構成がずれてしまうのである。これは、「治者と被治者の自同性」という、統治するものとされるものが同じだるという建前に強烈に反する。議会における多数決が、国民の少数しか代表していなければ、それは、少数決である。このような国民の多数と国会内多数のねじれを固定化する「合区解消=都道府県代表」論に一足飛びに飛びつくことはできない。
さあ、ざっと各論的に批判はしたが、総論に戻りたい
上の4項目、いったい通底する国家観や哲学はなんだ?
この4つの改憲項目を通じて達成したい、描きたい国家ビジョンはなんだ?
わかる人がいたら教えてほしい。
一つだけわかるのは、「改憲しやすそう4項目」であるということだ。
1.九州の豪雨でおばあちゃんを背負っていた自衛隊の存在を承認してあげなくていいんですか!
2.教育課程がすべてタダなんてお得じゃありませんか!反対する李理由ありますか!
3.こんなんに大災害が日常的に起こる我が国で災害時にこの国を維持することは大切ですよね!
4.おらが街の利益を代表してくれる先生を国会に送り出したいですよね!
どれだけコンセンサスを得られるか、もっといえば、反対しにくいか。それしか考えていない。
●踏み絵は「憲法改正を支持すること」
希望の党が踏ませた踏み絵には、「憲法改正を支持すること」と書いてあった。
「保守政党」の希望の党に公認をもらったAさんは、憲法改正を支持していた。内容を聴くと、
・天皇制は廃止(1?8条削除)
・私有財産制度は廃止して原始共産社会へ(29条)
が中心であった。すごい、改憲を支持している。
バカげた想定である、が、こういうことである。
憲法改正を支持すること、など、何の中身も持たない。まったく何も言っていないに等しい。
さて、この踏み絵に使われた希望の党の憲法観や政治哲学がわかる人がいたら教えてほしい。いるのか?
憲法改正にもろ手をあげて賛成することが入党の条件になっているにもかかわらず、ここに、何か憲法改革を通じた国家のグランドデザインやビジョンを見ることができるか?
見えない、そんなものは存在しない。
●「ためにする」憲法論議からの卒業
今見てきた通り、自民党と希望の党の改憲論議は、骨も信念もない極めて脆弱かつ無内容なものである。
記号としての「保守」でしかないから、「保守なら改憲」という記号をなんとか維持するために必死だ。
中身を見れば、ただ1文字変えるためにどうすれば反対されにくいかに汗をかいている「欲望充足改憲」か、保守と改憲だけを結び付けた「ハリボテ改憲」である。
あまりに低俗で空虚である。
「ためにする改憲論」はもう終わりにしよう。
これは、「ためにする護憲論」にもまったく同じことがいえる。自衛権の肥大化という不都合な真実を向き合うことなく、9条さえ変わらなければという無責任な護憲論は、9条が権力統制規範ではないことにお墨付きを与え、同時に立憲主義を語る自己論駁性を理解しないのか。
私が主張したいのは、我々一人一人が自分らしく生きながらも、その個性が共に生きることができる、リベラル・デモクラシーを再興させ強化するためのリベラルな改憲である。
権力統制規範としての憲法の復活である。
上に見たような、ビジョンなき粗悪な改憲論議を退場させるのは、他でもない、我々国民しかできない。
思想の自由市場という考え方がある。多様な言論が思想・言論の自由市場に流入すれば、これらが切磋琢磨して、より寛容で逞しい言論とそのような言論を育む公器としての言論空間がより高次のものに近づいていくという発想だ。
これは、過度な楽観主義に依存しているとは思うものの、その着想にはくみすることができる。そして、何より、この思想の自由市場が機能するかどうかは、市場における判断者、つまり我々一人一人がかなり合理的かつ高度な判断能力をもっていることを前提としている。
「楽観主義だ」と切り捨てるのは簡単だが、それは同時に、市場の判断者たる我々の審美眼が曇っていると天に唾を吐くようなものである。
結局、どのような立場に立とうが、何のトレードオフも想定しない一方的な言論や価値観は、ただの排外主義か、ワンイシュー型の圧力団体である。
「悩み」を持とう、「躊躇」しよう。
まったく自己と異なる他者との共生はひどくしんどい、決別ではなく共生をするには、あらゆる姿勢やふるまいに悩みや躊躇が生まれるはずだ。これはとても健全であり、民主主義や立憲主義が我々個人に課すコストである。
「排除」や「国家主義」による独断的決定に私が恐怖と嫌悪を覚えるのは、ある価値観を採用するのにあまりに悩みや躊躇がなく、ある種浄化された思想態度だからである。
そんな悩みのない価値や言論が強いと思うか?
その一面的・表層的な「潔さ」を「強さ」と見間違えていないか?
「悩み」を持とう、「躊躇」しよう。
それが思想、言論、そして価値を奥行のあるしなやかで強いものにするのだから。