先日、人から誘われて、重度の障害者がメインで出演する演劇を見に行きました。
ふだんの私は、そういう社会派っぽい感じのする芝居には、気後れしてしまう方なのですが、一方女好きなダメダメな性格の私は、誘って下さったのがあまり頻繁に会えない美女だったので、躊躇なく「行きます!」と答えたのです。
あいにく、その時間の前の用が押してしまったので、全部見る事は出来ませんでした(それでも美女と観劇したかった!)が、会場に入った途端、シンと静まり返った中で、ひとつひとつの、しかし出ている、脳性まひなのでしょうか、障害を持つ役者からすればそうであるしかないスピードの動作が印象づけられているのに息を呑みました。
健常者がその動きに合わせようとすると、とてつもなくゆっくりとした動きになります。健常者が演じる共演者からは、耐えられず殺意の言葉が発せられます。この殺意は、無意味に見える長い時間への殺意でもあります。しかし障害者たちは、そこにそうやって居ること、動きをやめないことが「戦い」なのです。
所謂テンポのよいリズムや、セリフの応酬が取り払われた世界で、障害者にとっては日常的な「動き」そのものに立ち合わさせられる経験でした。
芝居が終わるとアフタートークがあり、この芝居が相模原の障害者施設による殺傷事件が動機になって作られたものだということがわかりました。
僕自身は、かつて本ブログでも書いた通り、あの事件をきっかけに「差別」を問い直そうという動きに、懐疑的なものを感じてきました。いっぺんに障害者を虐殺するなんていう、激レアな事象に、過剰な意味を持たせてしまえば、かつて酒鬼薔薇をヒーロー視して模倣犯になる少年たちがいたように、かえってそこに正当化の根拠を持つ反動現象が起こるのではないかと、恐怖を感じたのです。
しかし今回見た芝居は、作者が相模原事件を知ったことが作るきっかけではあるものの、事件について直接描くものではありませんでした。「相模原事件の犯人は『意思疎通出来ない人間を殺した』と自供しました。これは最近『コミュニケーション能力』が高い人間が優れているという言い方がよくなされることに通じている気がします」と、企画者は語っていました。
コミュニケーションの断絶がなぜ起こるのか? それを優生思想やナチズムへの傾斜・・・といった大仰なテーマとしていきなり語るのではなく、日常的な動きや仕草の段階から起こる断絶から見つめ直そうとして、演劇というひとつの集約された時間の中で体感させる試みは、少なからず僕を驚かせました。
劇中、ドストエフスキーの言葉が引用されます。
「かの隣人を閉じ込めたからといって、
ひとは自らの正気を確信できるものではない」
障害者の存在も、あるいは他の、国防や沖縄の問題にしたって、多くの人々からは、見えなくていいような場所に放り込まれている。同じ時間の中で認識しなくていいようになっている。しかしそれだからといって、世の中が本当に平和で、暴力のない世界だと言えるのか。
そんなことを感じることの出来るお芝居でした。
ちなみに僕は新聞を二紙とっています。