本日、共謀罪法(テロ等準備罪とも呼んでる輩がいる)が施行。
「テロ対策」という偽りの看板をかけ、委員会での審議における議会慣例の破壊や中間報告での採決等々、熟議の前提をことごとく毀損し成立した法律である。
あらゆる意味で、法律が可哀そうになるほど民主的正当性がない。
また、「自由を制約するときは、選びうる選択肢の中でなるべく自由を制約しない方法で制約するように!」という要請(LRA「より制限的でない他の選びうる手段」という)からしても、既遂→未遂→予備→共謀と右にいくほど順に自由制限的(つまり、犯罪の実現から遠いのに処罰されるから自由制限的)という体系をぶっ壊して、未遂がない犯罪に共謀罪を創設したりしているため、適用においても「違憲」との判断がありうるだろう。
きめ細やかな合憲性審査さえもスキップして法律を定立する様は、まさに立法権の濫用。
そして、何より、社会が変容する。人々の共謀を嫌疑として捕捉するためには、我々の私生活に国家の目や耳が入り込む。
「共謀罪で逮捕されるような人間が騒いでいる」などという批判をしている輩には愕然とする。自己の自由と他者の自由が切り離されており、自己の自由以外は制約を受けうる別次元の自由と考えている。
しかし、そんなことはありえない、自由は同一平面上に存在するのだ。自己の立場と他者の立場を完全に入れ替えても受け入れられるのか、それができないならそれはまさに自己にのみ自由の利益をご都合主義的に援用する「ダブルスタンダード」である。
日本社会は、目に見えないものに対する警戒心が極めて弱い、監視は?放射能は?
我々の「共生」を根底から揺るがす自由や生命の敵も、目に見えなければヘッジすることができない。
要するに想像力が足りない。思いやりがない。
政府は、共謀罪の審議で、「一般人は対象にならない」「テロの抑止になる」「捜査は前倒ししない」「嫌疑がなければ捜査はしない」「準備行為までが構成要件である」「監視社会にはならない」などと、「逆にほんとにそれでテロふせげんのか?!」と思うほど抑制的な実体と手続きをうそぶいた。
我々国民は、今後本当に共謀罪の運用が政府の言うようになされているか、まさに「監視」しなければならないのである。
もちろん政府のその抑制的な答弁は詭弁・強弁だ。しかし、そこをなし崩しに波泊めてしまっては、国会の価値を国民も軽んじることとなり、ひいては、さらに国会をハリボテ化してしまう。
しかし、テロ等準備罪という罪名は存在しないため、おそらく「●●罪の共謀罪」という形でさらっと警察発表されるから、マスコミも気づかないかもしれない。
ならばしょうがない、この夏の思い出に、共謀してみて、共謀罪第一号で逮捕されてみるか