小林よしのりライジング Vol.228の「グローバリストが共謀罪を望む」読みました。
山尾議員が言っていた、国会論戦をまともに追っていない学者の世迷言ぶりを、今回小林さんが具体的にやっつけています。
日本人の体質をわかっていないグローバリストが、海外の例を当たり前のように引っ張ってきて、共謀罪を無批判に許容するのだということが、腑に落ちました。
実は最近、僕は、安倍政権のやりたい放題の独裁ぶりでもようやく支持率が多少下がっただけ・・・という事態に対して、1960年に作られた松竹映画『悪人志願』を思い出していました。この映画は、大島渚とともに、日本映画の新しい運動「松竹ヌーヴェルバーグ」を形成し、脚本家として知られる田村孟が監督として発表した唯一の作品です。
ある街をやくざが牛耳っているのですが、民衆がそれに対して「蜂起するのか?」という期待を一瞬見せておいて、次の瞬間、それを裏切るのです。
やくざの親玉が、工事現場の石切り場のすりばち状になった一番底に居て、労働者たちを見上げます。
一人の労働者が思わず一歩踏み出すと、足下から石ころが一つころげ落ちます。下に居るやくざが、一瞬、謀反が起きたのか怯みます。しかし結局、何も起こらない。彼らはただ見ていただけ。身動きせず、何もしないでいる石切工たちの顔を一人一人写していきます。
当時学生としてこの映画を見た映画監督の足立正生さんはこう語っています。「たとえばメキシコや第三世界では、その一つの石ころに続いて、二番目、三番目が落ち、どんどん石切工が暴力団めがけて石を蹴り、最後には殺ってしまうかもしれない。そう。メキシコなら『ビバー!メヒコー!』と石切工の蜂起にまでつながっていくでしょうね。ところが、日本では、そうはならないという現実を、監督の田村さんは描いていた」
『民主主義という病』で小林さんが書かれていたフランス革命のごとく、民衆は時に暴走し、権力者を屠ります。しかし日本では、舛添要一がしたような「小ズル」はみんなで叩いても、力を持つ権力者には、身を乗り出してまで戦いを挑もうという気持ちにならない。
そんな状況で、小石がぱらぱらと落ちてくるのに怯えた狭量な支配者が、ひそひそ話でさえ規制しようと疑心暗鬼に駆られる。これがいまの日本の、偽らざる姿なのでしょうか。