長嶋茂雄が監督時代、バントの名手川相を代打に送るとき、交代を告げる審判に、バントのジェスチャーをして送り出していて言葉を失った経験がある。「作戦ばればれじゃねえか。」
ダルビッシュがメジャーにいくきっかけについて聞かれたときに、「日本は真剣勝負じゃないんで。」というようなことを話していた。
試合前に相手チームの選手がきて、今日は少し手をぬいてくれ、おまえだと勝てない、等といったことをかわるがわる言いに来たそうだ。なんと情けない。
これがさらに進むと、「次カーブ投げてよ」「盗塁するときは教えてね」「サイン口に出してよ」というもはやカオスとなる。
昨日2月6日、金田法務大臣は、マスコミに対して「予算委員会における「テロ等準備罪」に関する質疑について」と題する書面を、マスコミにのみ配布した。
内容としては、要は国会における質問のあり方に注文をつける内容になっている。内容は、以下であるが、翻訳もつけておいた。
1.テロ等準備罪の法案は、現在検討中なのであるから、成案が出てきた後に、専門的知識を有する政府参考人も入れて議論すべきである。=法務大臣だけでは答弁できないから、局長等助けてくれる人がいるときにしてほしい。
2.答弁が難しいので、質問通告はもっと細かくしてほしい。
=相手の手の内をもっと詳しく見せて事前に官僚が答弁を準備しやすくしてほしい。
3.本法案のように条約の解釈等にわたる可能性がある場合は外務省も登録するべきである。=所管の法律でも他機関に関係あるところについては責任放棄させてほしい
これの何が問題か。
質疑を見ていただければご理解いただけるが、このテロ等準備罪の質疑における法務大臣の答弁は本当にひどい。いくつかの答弁ブロックを作っておいて、それを適宜、質問に関係なくても棒読みである。
およそ人のもつ最低限の知的・論理的誠実性を備えていてこの質問と答弁を聞いていると、自分の頭がおかしくなったような錯覚に陥る。
そうなってしまう理由は簡単で、法案自体に無理があるのと、金田法務大臣の能力自体に無理があるからである。
それゆえ、今回の法務大臣ペーパーは、国会での答弁を制限するような内容及び責任放棄的な内容になっている。内容自体が、責任問題を越えて「情けねえ」ということはさておき、このような文書を大臣のクレジットで出す、その行為自体が問題なのである。
内閣を頂とする行政権は、国会に対し広く責任を負うことによって(議院内閣制)、ひいては、国民に対して責任を負う。したがって、国会に対する責任が、内閣の民主的正当性調達の核心である。国会に対する広い責任の中核をなすのが、つまり、国会審議である。
しかも、内閣提出法案について、国会の熟議を経ることは、法案の正統性をも担保する(そのために、議員の院内での発言にかかる免責特権や不逮捕特権が規定されていることも併せ考えるべきである)。
しかし、今回の金田法務大臣のペーパーは、内閣の一員である法務大臣が、国会審議について制限を申し入れるものであり、行政権から立法権への完全な領空侵犯行為である。議院の自律権も侵害する。
これは、内閣が責任を負う国会での議論を矮小化することにより、内閣の民主的正当性調達も損ない、ひいては議院内閣制を逆噴射させ、議院内閣制の自殺を招く。
これも「野党の質問権を制限」という見出しで語られているが、野党の問題ではない。もっと大きな問題である。与党だろうが野党だろうが関係ない。
国会を通じての民主的正当性調達を自ら放棄し、議院内閣制、さらには国民主権をも損なう、自殺行為である。
また、これをマスコミにのみ配布したことも興味深い。政府自体がメディアであるにもかかわらず、マスコミを通じて、マスコミを規制するという方法ではなく、表現の拡声器として一定の価値観を広く社会に頒布しようとしている。規制の文脈でない場合、規律が難しい。
権力を監視するはずのマスコミにのみ、このような濫用的権力行使をすすんで喧伝する、ということ自体、倒錯感が著しい。
これらの問題の核心にあるのは、権力者の”節度”の欠如である。完全に権力が弛緩している。まるで「私」のふるまいで権力を行使している。自己規律や自己批判や、制度的な権力行使にかかる謙抑性が担保されていないため、権力行使に緊張感が一切ない。これには政権交代が現実味をまったく帯びていないという野党の責任も重大である。
テロ等準備罪を巡る議論は、権力や自由の問題を多く内包している。「権力の弛緩と僕らの自由について」と題して、連続的に論じていきたい
to be continued…