民法には、和解について、以下のような規定がある。
【第695条】「和解は、当事者が互いに譲歩をしてその間に存する争いをやめることを約することによって、その効力を生ずる。」
もちろん、和解契約として、任意ですることもあれば、裁判上の和解といって、裁判所の話し合いの過程で、裁判所が入った形で和解をすることもある。
和解の本質とは何か、それは、「紛争の終局的解決」であり、「請求権の放棄」である。
我々法律家は、紛争を最大化するためでなく、最小化するためにいる(そう考えていない(そうしないと食っていけない)好戦的なムキもおられるが)ので、和解での解決に至ることが極めて多いし、それが望ましい場合が多い。条文にある通り、「互いに譲歩」するから、当事者の納得感も担保できる。「勝った」「負けた」となりにくいからである。
裁判所としても、訴訟のある程度の進行段階で、必ず和解勧旨する。
そして、和解となれば、その内容を書き込んだ「和解調書」は判決と同じ効力を持つ。つまり、強制執行までできる。
では、その和解にあたって必ず盛り込まれる要素とは何か、もちろん、お互いでの金銭の支払いや確定した債権債務の額など、「互いに譲歩」した内容が書き込まれる。
そして、最後に必ず規定するのが「清算条項」である。
・当事者間に(本和解条項に定めるほかは)債権債務の存在しないことを確認する。
・その余の請求を放棄する。
・和解に要した費用は各自の負担とする。
これにて手打ち、恨みっこなし、お互いの責任等はゼロベースに戻る。違反したら強制執行までしうる。
和解とは、それくらい重みのある法的行為なのである。
安倍首相が、先日、パールハーバーを訪れ、「和解の力」とする演説を行った。この内容の文学的価値については、措こう。
一体、安倍首相、日本政府は何を和解したのか。
明らかなとおり、今回のパールハーバー訪問は、伊勢志摩サミットに際してオバマ大統領が広島の平和記念公園を訪れたことへのある種のアンサーソングとしての訪問である。
オバマ大統領は、アメリカ人大統領として初めて広島の原爆記念館を訪問し、哀悼の意を述べた。これに対して、安倍首相は、パールハーバーを(首相としては4人目として)訪問し、同じく哀悼の意を述べた。
これが「和解」というのなら、広島とパールハーバーを天秤にかけて、「互いに譲歩」し、紛争の終局的解決をした、ということになる。
しかし、広島とパールハーバーはparity(対等、同価値)か?
民間人を虐殺した原子力による国際的な戦争犯罪と、軍港への奇襲は同価値か?
どう考えてもおかしい。去年の安保法制では、自衛隊(我が国防衛)を差し出し、今回は広島を差し出した。
そしてこれらを称して「和解」と名付けた。和解を「仲直り」くらいの意味でとらえてはいないか?
日本は、パールハーバーとはまったく同価値にない広島を差し出して「和解」をしたのだ。行政の最高権力者をしてそういったのだ。つまり、広島とパールハーバーについてのお互いの権利の放棄であり、今後はもうお互いに何らの権利義務も負わないということだ。
見返りは何だ?何か得たのか?
日露交渉もそうだったが、自分から余分にカードを切って、何か得たのか?
「大人の外交交渉」はどこへいった。
未来志向などという言葉で、ごまかしてはいけない。そのような言説を言う者は、後ろめたさはないのか。本当に傷ついた少数者、そして、消えていった少数者を無視してはいないか。それでも日本国民か、同胞か。
国を思う者、そして、この日本社会を愛する者がなぜもっと声を上げない。なぜ抗議しない、傷ついた同胞のためになぜ抗議しない。
社会自体が細分化され分断され、熱狂と沈黙に覆われ、その最小単位の個人レベルでの「自己」と「他者」の峻厳な向き合いが欠如していないか。
政権批判の「ためにする」主張ではない。
あらゆる社会的存在にこのことを投げかけたい。
自分たちが主張することやコミットした特定の問題解決の要求だけをして、そのコストや逆に自身がトレードオフをしなければならない必要を無視した、非常に独善的な単一のアジェンダに特化した「圧力団体」化していないか、集団極化していないか、自省的な眼差しが必要なのではないか。
ちょっと熱くなったので、アイスでも食おう