去る12月11日のゴー宣道場に、ゲストで三浦瑠麗氏が登場した。
私もゲストに毛の生えたような師範”見習い”ではあるものの、だからこそ感じたことはいくつかあった。
三浦さんとは、2015年の安保法制について、新聞誌上で対談して以来、定期的に意見交換をしている。
「三浦さんて、どこかのスパイですか?」「この前の朝生、いつにもましていけすかない感じ出てましたよ」などと意見交換をしている。
彼女の議論は、形式(外見)も実質(中身)も、論争誘発的・挑発的・刺激的であるので、私は意見や見解を異にするところも少なからずあるが、いつも、「稽古」のように意見をぶつけさせてもらっている。
そんな中、道場ではどうだっただろう。
トピックはかなり多岐にわたった。女性活躍、労働、教育、選挙、憲法、そして皇位・・・
どれについても、持ち前の反射神経と三浦的視点から、テーマを斬っていった。
内容については、各自いろいろと意見の相違があると思う。
私も、大学無償化については、むしろエリートだけが得をする社会から脱却するという意味で、政策のとらえ方が違うと思うし、夫婦別姓についても、あと数歩踏み込んでいただいてもよかったと思う。
また、彼女は、とにかく構造改革路線なので、その視点で彼女の発言をみると説明がつきやすいかもしれない。
何より、彼女の言論の特徴は、突き付ける、ことだと思う。突き付けられた問や投げかけは、まるで「あなたちょっと脱いでみなさい」と言われ、言われるがままに脱ぐと「その程度ね」と笑われる、こんな感じだ(どんな感じだ、怒られるぞ)
しかし、現代であそこまでタイマンはりまっせ型の論客は珍しいのではないか。
後から入った身からすれば、前回のゴー宣道場は、非常に多様な論点について、それぞれがかなり自己の体験や思想から出発して、賛否含めて悶絶したと思う。
三浦さんのことをどうしても受け入れられないムキもあろうかと思う。しかし、それでいいのだ、論破や否定を越えて、各論点についての各個人の思想が共存する。そこで、我々は異質の「他者」に出会い、「自己」を再定位する。
三浦さんに反発しながらも、自己を再発見した方もたくさんおられたのではないか。「自分はこんな風に、こんな思想を真に大切に思っていたのか」と。
その意味で、前回の道場は、多様な考え方がつばぜり合いしながら、しかし、淘汰されるのではなく共存する、「対話」するフォーラムのデモンストレーションになっていたと思う。
そこには、それぞれ「悶絶する」”生身の個人”がいた。なんてダイナミックなんだ。
「つきつける女」三浦瑠麗の存在は、そんな意味づけもできるかな、と、考えてみた。
ちなみに、1月1日ころのの神奈川新聞で、南スーダンやトランプ、憲法改正等々、2017年をどう読むか、というテーマで、三浦瑠麗VS倉持麟太郎、やってます。追って告知いたしますが、ご高覧ください。