堀辺さんが
<「愛国心」は教えられないが、
「国家」とはなんぞやということを子どもの時から学んでいれば、
おのずとそれは生まれる>
と発言した第一回目の道場で、
小林さんは、しかし愛国心は学校現場で
教えた方が良いとわしは思っていると発言しています。
もし仮に、救急車を呼べばすぐ来るとか、
郵便が一律料金で全国に届くといった
近代的な利便性が得られるという単なる損得感情で
「国家」を捉えるような教師に教えられた場合、
たとえば国旗に対する敬意がある程度習慣として
身につくことなどもないのではないか?
堀辺さんの言う「君と僕」・・・・
相手を「君主」のように敬い、自分を「僕」(しもべ)
のようにへりくだるという日本人同士の礼節は、
君主への忠誠が前提としてある「平等」であり、
価値相対主義的でフラットな「平等」とは異なるものです。
そのことを重んじる態度は、
近代国家としての日本の自立のため国民が
政府を監視すべしという態度の一方、
手放さず持っているべきものなのではないか。
奇しくも、今月号(5月号)のSAPIOに掲載の
『大東亜論』では、
「政府と人民とは『契約』を守るか否かの関係であり、
決して主人とその子のような関係ではない!」
とする植木枝盛の演説に感銘を受けた18歳の少女・岡りなが、
しかし植木が政府と君主を一緒にしていることには
疑問を持ち、彼にこうぶつけます。
「植木先生は
天子さまと人民を対等とお考えですか?」
この問いかけの答えは次回に持ち越されますが、
まさに、ゴー宣道場の第一回から一貫した