一昨日のゴー宣道場、慰安婦問題を通して、国際社会の中の日本のあり方について、本質的な認識が深まりました。
保守層ですらみられる今回の安倍総理による日韓合意賛成論には、歴史認識の問題より安全保障を優先するべきである……という考えがみられます。
その点、ゲストの藤岡信勝さんには「それはそうだけど、でも……」という多少の動揺が見られましたが、小林よしのりさんは、国防か歴史認識か、どっちが先かという優先順位には意味がないと発言。
たしかに、歴史認識だけを真空地帯で論じる事が出来る機会など、永遠にめぐって来ないのであり、この優先順位論こそ、保守までも「お花畑思考」に陥っている証拠ではないかと思えてきました。
また国防を「安全保障」という言葉で言い換えることに、既に「罠」があるという、高森さんの指摘にも、ハッとさせられました。
「安全保障」という言葉は、安全は自動的に保障されているのが当たり前だという思考を生みます。それは国民としての自主性を奪い、アメリカに守ってもらう事を永久化しなければならないという強迫観念につながるのではなでしょうか。
一昨日は、言葉の持つごまかしに敏感にならなければと気付かされた日でもありました。
安倍総理が慰安婦問題の日韓合意になぜ至ったのかという話題の時、「最終的かつ不可逆的に解決される」という文案の文句に飛びついたのではないか……という藤岡さんの指摘に「そ……そんなことで」と思ってしまった私です。
「軍の関与」の「関与」という言葉にも、日韓合意の中にわざわざその文言を盛り込むという事の意味を考えなければならない。
誤解を避けるためなら、「軍の関与の下に」という部分に「軍は慰安婦の衛生管理をしたり、不正業者がまかり通ることのないように働きかけた」という風に具体化して記述する事が必要だったと思います。
そして慰安婦問題で目的とするべきなのは、韓国の顔色を伺う事でもなく、慰安婦の気持ちを納得させる事でもないのではないか……という小林さんの指摘にはハッとさせられました。
日本が、自国の行為に関して対外的な態度を示す時、その言葉が、まず日本の土俵に立って記されているのかどうか、それを考える事が大切だと教えられました。
藤岡さんがおっしゃっていた、東京裁判史観に異を唱える者に浴びせられる「歴史修正主義者」という批判は、慰安婦はホロコーストと同じだという認識を受け入れるかどうかの踏み絵であり、国際社会でアメリカと対峙した時の根本的な態度が問われる問題だ……とおっしゃっていたのが印象的でした。
しかし現状ではそれに対して異を唱えないのが外務省の方針であり、今後外務省が「日本」の主語を取り戻す努力をしたとしても、しばらくはバッシングを受ける覚悟を持つ必要がある……という藤岡さん、小林さんのお話には、真実を言う時の勇気の必要について、考えさせられました。
「歴史修正主義」のレッテルを貼られても、真実を語り続けること。これは、大変な覚悟が要ります。