昭和45年11月25日、三島由紀夫は「憲法改正」を訴えて
自決した。
だが、その三島が同時に、憲法改正への深い警戒感を、
率直に表明していた事実を見落としてはならない。
すなわち、その「問題提起(日本国憲法)」で以下のように
述べていた。
「もし現憲法の部分的改正によつて、第9条だけが改正されるならば、
日本は楽々と米軍事体制の好餌となり、自立はさらに失はれ、
日本の歴史・伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。
われわれは、(憲法)第1章・第2章の対立矛盾に目を向け、
この対立矛盾を解消することによつて、日本の国防上の権利(第2章)
を、民族目的(第1章)に限局させようと努め、
その上で真の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。
従つて、第1章の国体明示の改正なしに、第2章のみの改正に
手をつけることは、国家百年の大計を誤るものであり、
第1章改正と第2章改正は、あくまで相互のバランスの上にあることを
忘れてはならない」
「9条の改廃を決して独立にそれ自体として考えてはならぬ、
第1章『天皇』の問題と、第20条『信教の自由』に関する
神道の問題と関連させて考えなくては、折角『憲法改正』を推進して
も、却ってアメリカの思ふ壺におちいり、日本は独立国家として
本然の姿を開顕する結果にならぬ」と。
私は何も、三島由紀夫の一言一句を全て、
金科玉条のように扱うつもりはないし、そうすべきだとも考えない。
だが少なくとも、憲法改正を真剣に考えるなら、
ここに見られるアメリカの軍事戦略に対する切実な緊張感と、
日本の自立の根拠となる独自の「歴史・伝統・文化」「国体」への
問題意識は、何としても共有すべきだろう。
日本が真に「自立」する為の憲法改正であり、
アメリカに一層“奉仕”する為の憲法改正であってはならないからだ。