『新潮45』7月号に『昭和天皇「よもの海」の謎』の著者、
平山周吉氏の一文が載っている。
題して「天皇皇后両陛下の『政治的ご発言』を憂う」。
比較的長文だ。
だが要点は、平成25年の皇后陛下のお誕生日に際してのお言葉に、
「五日市憲法草案」へのご言及があったのを、“憂えて”いる
ということ。
「五日市憲法は、(それを史料として発見した“天皇制否定論者”の)
色川大吉の…(天皇制を差別の根源とする)思想と切り離すことが
できるのか。
…おことばで、ここに踏み込んでしまって問題はないのか」と。
私はかねて、この種の短絡的な反応が出てくるのを見越して、
お言葉の発表当時のブログで、予防線を張っておいたつもりだ。
平山氏は両陛下のお言葉に最近、触れるようになって、
予断とは異なり、その一種、鋭角的な切り込み方に
戸惑っておられるらしい。
それはそれで素直な反応と言える。
だがお言葉を巡って、何か文章を書くのは、もう少し深く、
心を澄ませてお言葉に触れる経験を積み重ねてからにされた方が、
良かったのかも知れない。
平山氏は
「明治憲法と伊藤博文が、現行憲法とマッカーサーが
不可分なのと同じくらいには、色川と五日市憲法は不可分
なのではないか」などと口走るが、無論そんな訳はない。
当たり前の話だが、色川氏は五日市憲法の起草には一切、
関わっていないのだから。
「日本帝国憲法」(五日市憲法)は、
明治期の自由民権運動が生み出した民間憲法草案の中でも、
取り分け「民衆」的な性格を持つことで注目されている。
但し、その内容は冒頭に「神武帝の正統」である
今上天皇の統治が謳われ、議会は「民撰議院」と「国帝」の
任命による「元老院」の2院制を考えている。
「『民衆』的であればあるほど…
『民主主義』的であるとは必ずしも言えないのかもしれない」
(坂本多加雄氏)との指摘がある通り。
勿論、「天皇制否定」なんかではない。
だから、色川氏本人も「あまりにも微温的、妥協的」と
不満を洩らしていた。
皇后陛下は、そんなことは全てご存じだろう。
その上で、最もおっしゃりたかったのは以下の件りではなかったか。
「当時これ(五日市憲法草案)に類する民間の憲法草案が
少なくとも40数ヵ所で作られていたと聞きましたが、
近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、
自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。
長い鎖国を経た19世紀末の日本で、
市井の人々の間に育っていた民権意識を記録するものとして、
世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と。
卓越したご洞察だ。
このどこが「政治的」なのか。
折角の労作ながら、平山氏の独り相撲の気配が濃い。
それよりも文中、筋金入りの反天皇論者である
色川氏の次のような発言を紹介しているのが、興味を惹く。
「私は元来、天皇制否定論者なのですが、
日本の民主主義のバランスを取るうえで、
現天皇夫妻は貴重な役割を果たしていると言えるでしょう」と。
平山氏には、こんな発言も何故か皇室への不満の種になるようだ。
だが、まさに「国民統合の象徴」の面目躍如と言うべきだろう。
この文章でも取り上げられている、
福澤諭吉の『帝室論』が求めるところを長年、
真摯に実践されて来た両陛下であればこそ、である。
平山氏には、皇太子時代の昭和50年、
沖縄でひめゆりの塔事件があった時に、ご発表になったお言葉を、
心静かに拝読されることをお勧めしたい。
更に、例えば大正12年の虎ノ門事件の際の、
当時は摂政だった裕仁親王(後の昭和天皇)のお言葉も。
「一視同仁」こそ、わが皇室の尊い伝統精神だということに、
改めて思い至るはずだ。