ゴー宣DOJO

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切通理作
2015.4.20 06:40

こんなことを考えながら参加しています

 

「神回」と言われたゴー宣道場から、一週間が過ぎました。

 

<「戦後70年」と言うけれど、

その70年前のさらに70年前は「西南の役」だった>

という、師範方の指摘に、私も師範の一人でありながら

「なるほどそうか」と思った瞬間が、いまだに耳に残っています。

 

ペリーが来て15年で開国した日本。

国としての体制を整えるのが、非常に早かったのです。

 

かつて戦後民主主義者だった私なら、

「国としての体制が整ったのは結局、戦争を

する体制が整っただけじゃないのか」

「そんなに戦争するのが偉いのか」

といった視点しか持てなかったでしょう。

 

いま、私は何気なく戦後「民主主義」者という言葉を、

対岸に居る人間のように使ってしまいましたが、

私はいまでも自分が民主主義者だと認識しています。

 

そして私は、ゴー宣道場の参加者の一人として、

「民主主義と国民意識の共存」という

本来当たり前の事を改めて訴えていきたいと思っています。

 

「民主主義と国民意識」の共存がなければ、

日本に言論は蘇らないのではないか……と。

 

「国家」イコール「管理」、

「国家」イコール「戦争」への動員、

「国家」イコール「ファシズム」……

 

そんなイメージを私も持っていました。

 

しかし、それは、いまある自分の権利や自由を、

当たり前に思い過ぎているがゆえのことだったなと。

 

本当は日本が国民国家として成り立っているからこそ、

近代的な価値観も共有できているのだということを、

空気のように思い過ぎていました。

 

そして多くのリベラル派が

「空気」のように感じてきたものが

崩れようとしている不安に曝され、

逆にどうしていいかわからなくなってきている

のが「いま」ではないでしょうか。

 

そんな中、

「自ら主体にならないと国が作れないよ」

などと言えば、いまだに反動形成のようにしか

認識できない。

 

しかし、そうであれば、

そこから先に、誰も一歩も前に進めないのではないでしょうか?

 

いまの我々には

「国民」であるというのは、

権利のひとつであるという考え方がない……

と、先日の道場に

久しぶりに登場された堀辺師範がおっしゃいました。

 

国民が民主主義を取り戻すには、

国家を意識せざるを得ない。

 

私自身がその事を日々覚醒し直し、

生き生きと語れるような感性を自他に示していくという事。

 

そんな事を考えながら道場に参加しています。

 

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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