昨日のトッキーさんのブログで、アイヌ民族肯定派が私に対して「アイヌは民族か否か?」の踏み絵を迫るツイートが送り、私の方が疑問点を指摘するも、「差別主義者!」のレッテル貼りに終始されたと書いてあったのを読んだ人も多いと思います。
「よしりん先生が指摘しているとおり、
『小林よしのりと付き合う者は、
村八分にしろ!』
という運動を始めたのです」(トッキーさんのブログより)。
実は昨日、もっとひどい・・・というよりは、口をアングリさせられる出来事が起きたのです。
切通理作は、かつて自分の著書から「アイヌ」の三文字を削り、
それが、小林よしのりの腰巾着に堕落したからだ・・・
というのです。
先ごろ新装版が復刊された、私の初めての単行本『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』の中での話です。
以下そのツイートです。
<切通理作がはじめに雑誌に書いたときには入っていた「アイヌ」ということばが、文庫本では消えている。金城哲夫や上原正三に取材して先住民族について書いてデビューしながら、小林よしのりの腰巾着に成りはてただけのことはある。>
あまりに身に覚えがないので、
思い返してみましたが、
「アイヌ」の三文字を意図的に削ったという記憶は
まったくありません。
というか、良い悪いは別にして、
当時そこに自分の関心があったとは思えない。
60年代から70年代、ウルトラマンの初期作品当時
アメリカ領だった沖縄から来た金城哲夫さん、上原正三さんという作家たちがドラマを書いていたという
話をする際、ドラマでは言及されていないアイヌにまで話題を広げていた部分を
カットする理由があるとしたら、
単行本はより作家たち自身の半生に焦点を当てたため、
軸として少しズレると思ったのかもしれませんが、
まったく憶えていないのでなんともいえません。
私の初めての単行本は、
その前に雑誌に発表した文章の一部も使いながら
全体の8割以上書き下ろしで出したものです。
それ以前の雑誌原稿は、単行本版の「初出原稿」とまではとてもいえず、
400字30枚程度の雑誌原稿と、
400字600枚ある単行本とは分量も角度もまったく違います。
別テキストと言っていいと思います。
また当時はデータ入力ではなく、一文字一文字
打ち直していた時代です。
内容的にはベースになっている部分があったとしても、
いまみたいにまったく同じデータを移し換えた上で
手を加えるなんて時代ではなかったのです。
ですから、忠実に引き移す事が特に求められない仕事の場合、どんどん変わる事はそんなに珍しくありません。
当然両者の記述に違う個所など無数にあるのです。
そのいちいちに仮に全部理由を求められても
「違う本だから。構成も変わる」としか言いようがないのです。
その中から「アイヌ」の三文字を意図的に削ったとは、
22年前ですから憶えてない部分が多いとしても
ちょっと考えられないのです。
僕の最初の単行本が出たのは1993年です。
今回批判してきた人間がテキストにしている文庫版が
出たのは2000年です。
小林よしのりさんが、アイヌ問題についてコミットした
「わしズム」誌が出たのが2008年。
8年もあとです。
2008年はまだゴー宣道場はありませんでしたが、
その後、私はゴー宣道場で砂澤陣さんがゲストで出た回に参加し、
「アイヌは民族か否か?」という問題系が世の中に存在すると言う事を初めて知りました。
つまり、単行本および文庫化の時点で、「アイヌは民族か否か?」という問題は
私にとって未知のものであり、小林さんにとっても、少なくとも公に向かって考えを
表明している時期ではまだありませんでした。
僕が小林さんに配慮して、
未来はアイヌ問題に触れるだろうから、いまの内に
「アイヌ」の三文字を削ろう・・・と思ったなんてことが、あり得るはずもないのです。
また1993年に僕はまだ小林さんとは知り合いですらありませんでしたし、
しかもなんと、文庫版の時には『戦争論』をめぐる考え方の違いから、
訣別宣言すらしていた時期で、交流はなかったばかりか、
小林さんの言っている事だからそこに合わせると言った考えは(今でもありませんが)当時はさらに程遠く、むしろ敵対的な立場にあったと
言ってもいいのです。
しかし、こんな経緯ももう知らない人も多いでしょう。
あまりにデタラメかつ荒唐無稽な記述を
少なからぬ人間がリツイートしているのを見て、
やはり著者自身が説明しておくべきと、
上記のことを、私は丁寧に説明しました。
しかしそう説明した後も、
「アイヌという文字を削除した理由を明かしたら如何でしょうか」
という質問をまだしてきたりする人が居たり、
最初にツイートした人間も
「あんたが自分の文章からアイヌという言葉を狩ったんだろうが」
などと、こちらの説明を
まったく受け付けず、
言いがかりを繰り返してくるのみ。
呆れたのは、最初は単純に削ったと
いう話だったくせに、私の説明を受けるや
今度は、単一民族幻想を疑うというテーマの本で
「アイヌ」の記述がないのはおかしいと言い出すのです。
沖縄から来た作家たちの話をする際、
一遍に飛び火し、マイノリティの問題として
なんでもいっしょくたにまとめて語る事に、
ひょっとしたら単行本当時の私は
雑誌と違ってセンセーショナルに色んな事を
並べなくてもいいのではないかという直感が働いたのかもしれません。
まったく憶えていませんが。
しつこく絡んでくるその人間は、しまいには、以下の事を言い出す始末。
<時期的にいうと、小林よしのりが「新しい歴史教科書を作る会」に入ってたんで縁を切ったけど、アイヌ叩きを始めたんでよりを戻したってことかな?新しい歴史教科書は許せないけど、アイヌ叩きは大歓迎とか?>
なんと私が、
ゴー宣道場が始まった頃、
未来に起こるアイヌ論争を期待して
小林さんにすり寄ったというのです。
まさにSFの世界です。
でも、ここまで読んだ方で、以下の感想を持った方もいるでしょう。
「そんな言いがかり、まともに相手にしなくていいんじゃね?」
・・・・ハイ。
おっしゃる通りです。
信頼する人からも「そろそろ打ち止めにしたら」と心配された私は
木蘭師範の「大声で言ったから伝わるわけではない」
というブログでの言葉も思い出し。
事実関係はもう一通り説明したこともあり、
それ以上ヒートアップするのはやめにしました。
しかし、コピペ文化の現在ですから、
元の荒唐無稽なデマツイートが
これからもRTされたり、
僕に向かって飛んでくる可能性はあります。
そこで、こちらのブログで説明をまとめて、
いつでもポーンと飛んで来れば経緯がわかるように
させて頂いた次第です。
私が小林よしのり氏の身近にいる人間であるらしいという事から、
はるか時制を遡った過去の著書に
「アイヌ」という三文字があるかないかということを詮索され
陰謀史観のようなものが流布されて、
本気で信じているのかそれをRT
する人がいる。
「アイヌ」について触れても糾弾され、
触れなくても「削った」と糾弾される。
これはもう「アイヌは民族か否か?」といった
踏み絵のレベルすら踏み外しています。
それが小林よしのりさんに関わった
人間の置かれた立場だとしたら、
異常事態ではないでしょうか。