『日本書紀』に次ぐわが国の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』。
それに、なかなか興味深い史実が載っている。
第50代桓武天皇が即位して間もない天応元年(781)5月29日
のこと。
尾張国中嶋郡の住人、裳咋臣船主(もくいのおみふなぬし)なる
人物が朝廷に“改姓”を訴え出た。
「裳咋臣」を改めて「敢臣(あえのおみ)」にして欲しい、と。
その理由が注目に値する。
最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が
編まれた際(670年)に、誤って母方の姓を登録し、
そのままになっているからーというのだ。
船主の主張が確かな事実かどうか。
今となっては確認のしようがない。
だが、朝廷はこの要望に応えているから、
その主張に一定の根拠を認めたのだろう。
少なくとも、父方ばかりでなく、
母方の姓を受け継ぐ例もあり得たという現実が元々なければ、
こうした訴え自体、成り立たないはずだ。
シナ父系制(男系主義)に由来する「姓」も、
わが国の根強い伝統の前に、やむなく変更を迫られた事情を窺わせる。
また別に延暦10年(791)12月8日にも、
伊予国越智郡の住人、越智直広川(おちのあたいひろかわ)等が、
やはり庚午年籍に母方の姓を登録したとの理由により、
「紀臣(きのおみ)」への改姓を願い出て、認められている。
庚午年籍以来、既に1世紀以上が経過している。
その間、平然と母方の姓を名乗り続けていたのだ。
恐らく、これらは氷山の一角だろう。
史料上の制約を考えれば、そうしたケースは他にも多かったと
見るのが自然だ。
ところが、シナ流の姓の観念が次第に社会に浸透するにつれ、
船主らのような動きも現れて来たのではないか
(もとより他にも動機はあっただろうが)。
勿論、一方で、それまでの母方の姓をそのまま継承した例も、
少なくなかったに違いない。
いずれにせよ、シナとは異なるわが国独自の血統観を
前提としなければ、上述のような史実を整合的に説明出来ないだろう。